ここ5年くらい4月23日のサンジョルディの日は同居人と本を贈り合うことにしてるのですが、今年はルドルフ・アルンハイムの『美術と視覚』が贈られました。
その本欲しがってんの良く知ってたなって感じだったんですけどAmazonの欲しいものリストに入ってたそうで、ヘルダーギマレスの名著『リフレクションズ』でお勧めされてたから探してたもののなかなか状態が良いものが見つからずほったらかしてたところ、Secret Languageに備えてという絶好のタイミングで読むことができました。
著者のルドルフ・アインハイムさんはドイツの心理学者で、心理学から見た芸術という感じの本を何冊か書かれています。映画評論で引用される『芸術としての映画』が一番有名ですかね。
その後に書かれたのがこの『美術と視覚』で、原著が出たのは1954年。
まず普通にめちゃくちゃ面白い本でした。
絵に関する知識とかほぼないので辛いところもありましたが、むしろ門外漢にこそわかりやすくある程度リテラシーが要求される芸術作品に対する新しい視点を持てるし、美術入門としてとても良い本だと思います。
図形や実際の作品を例に「見る」ということと、何故そう見えて感じるのかという件を実験結果も交えて掘り下げ、見るという行為が創造性に繋がること、それをいかに表現するのかみたいな話に繋がっていきます。
超ざっくり書きましたが、こういうのは結論に至るまでの過程がおもろいもんで、たぶん最新の研究から見ると色々アップデートされてたり、当時からしても議論の余地を残すとこもあると思うのですけど、視覚と感覚という言葉にし辛い領域を可能な範囲で伝えてくれます。
実際ゲシュタルト心理学一本槍の考え方に否定的な意見もあったりしたみたいですが、ゲシュタルト心理学ありきというよりは芸術を論じるツールとしてゲシュタルト心理学が一番適してるということらしく、素人が読んでも飛躍っぽいとこは立ち止まるし、そこまでこじつけという感じはしませんでした。
んで、手品というのも視覚芸術なので、手品が芸術かどうかという話はまた別としても見て何か感じるものという意味で大いに共通する部分があります。
不思議という要素が入るところは他のジャンルと違うとこですが、アルンハイムさんは絵も映画も現実世界をそのまま写したものではなく、そこに見る人が想像力を働かせるから芸術なのだという立場で、そういう意味では手品的な目で読んでも納得できるとこは多く全く退屈しません。
たぶん適当なページを開いて引用して「これが手品とどう関係するか、わかりますよね?」と手品教室でドヤってるおじさんがいてもおかしくないぐらいには手品と結びつけて読めます。
はじめに、食卓に坐っている家族の側面図をうつし、次の瞬間に、食物の鳥瞰図をうつすことができる。こういうやり方は写真を時間的に連続させることによって、実際的に「正当視」される。それは理論的には距離や角度の変化を容認することである。しかし観客のじっさいの経験では、このような観点の変化ははっきりは自覚されない。だいたい観客はものをじぶんにいちばん都合がよい大きさと角度において受け入れ、そういう視覚的な正しさが「実物に忠実である」かどうかは頓着しない。
これは「成長」という章の中で子どもが書く絵は何故ああいう感じなのかという話の流れで、子どもが書く二次元の絵と三次元の表現の違いを映画の文法で論じているところです。
映画はシーンがいきなり変わってもそういうものだと思って見るので手品の「正当視」とは別の理屈かもしれませんが、ちょっとそれっぽい話っぽくないですか。
まあそこまで無理にこじつけなくても、目の前で何かが綺麗に消えたり変わったり揃ったりした時に感じるある種の気持ち良さみたいなものは視覚情報から得られるものですし、よく出来た手品というのはテーブル上に何をどう配置するのか、何をいつ見せて何を見せないのかということまで細かく計算されてます。
ことヘルダーギマレスの手品は非常に視覚にこだわられていて、現象がビジュアルというだけじゃなくサトルティ面や心理的効果を狙ったディスプレイに強いこだわりが感じられ、この本からなんか影響を受けてんのかもって読むのも楽しいです。
例えば最初の章は「バランス」というのがテーマで、これ”Invisivle Thread”の話やんという感じで読みました。
本では簡単な図形を例にバランスの悪い物を見た時に感じられる居心地の悪さのメカニズムが語られていていて、Invisivle Threadはその不快感を意図的に作り出して視覚的にも心理的にも気持ちいい状態に持っていく手品で、まあ現象の凄さは美術の理論知らなくてもわかることではありますが、現象から手順を作っていくヘルダーギマレスのスタイルはまず「理想の現象」を考えるとこを超大事にしてますし、演じる側としても何がどう凄いのかということを深く理解しておけばより効果的な見せ方が期待できんじゃないでしょうか。
Invisivle Threadの中でも何回かある、イロジカルな動きからのディスプレイなんかもそういう視点で見ようと思えば見れますし、いわゆるノイズというのはそれだけで不快を残すので意味のない動きや現象の前にパケットの接近がないという点も視覚的な体験を考えてのことでしょう。
そこらへんの話は2章の「形」で、より知覚的な体験論に踏み込んでいきます。
だいたいこういう話。
ものの形は目にうつる映像だけでできまるものではない。ボールは前面しかみえないが、まるい形をとうぜんに完成するうしろのかくれた部分も、まちがいなくボールの知覚の一部分である。
この章は過去の記憶と視覚/知覚の関係の話がおもろかったですね。
どういう構造のものなら記憶や体験が影響するのかみたいな実験。
手品の場合はセリフがあるから、いつ何を喋って何を言わないかというところでもっと広くコントロール可能かと思います。
ここから「形式」(手法論)、「成長」(児童画の分析)と続いて下巻に。
下巻は「空間」「光」「色彩」と技術的な話が続いてだいぶ難易度上がりますが、バランスの話だけでもわかってればだいぶついていける感じで、こういう理論を手品に応用するなら結構参考になりそうな話もありました。
その次の「運動」の章は、ダンス、演劇、音楽などの時間表現を含む芸術と絵画の違い、本質的には違わないことについての論で後半の読みどころ。
メリエスの映画を使ったトリックの話もちょっと出てきます。
動きのある表現で動きが止まることは「静止状態」ではなく、「氷った」り、「抑止された」りという別の形の表現で認知されるというのは言葉にされるとなるほどですね。
止まるってのは一番シンプルなサスペンスの作り方ですが、どう見せたくて止まるのかまで意識すればだいぶ効果は変わりそう。
時間表現と記憶の痕跡の話もおもろい。
ダンスの導入の旋律は、あとの部分の構成をみた後では、違ったものになる。演技が運ばれるということは、たんに新しい珠が鎖に繋がれる、ということではない。前に来たものは、いずれも後に来たものによって、たえず変えられるのだ。このように、変化のために過去を利用すること、過去の出来事の全系列がいまながめてるものの運動のように与えられることは、記憶の空間的性格によって説明することができる。記憶されるものは、何でも記憶痕跡の空間のなかに位置づけられる。それは現在、脳髄のどこに場所を持っている。それは日附よりは住所を持っている。だから、われわれはダンスや音楽のような出来事の経験を、われわれの中に残ってる痕跡の相互作用によって、理解しなけれぼならないのだ。
ストーリーのあるような作品では今までに見ていたものが別の角度から見えるようになるというのは話作りの基礎だったりしますが、日附より住所ってのはわかりやすいですね。
当たり前だけどなんかを見てて無意識に感動してたりする事って多いので超納得。
最後「表現」の章でまとめ。
会話して相手に考えを伝えることも表現ではあるけど、それと芸術を分けるものは何か、という話です。
あらゆる手品が芸術的であるべきとは思いませんが、どんな手品でも表現の仕方は考えられるべきですし、見られるというのはそれだけで相手に色んな情報を与えてるということはここまで読めば怖いぐらいわかるのでなんか背筋が伸びるような話でした。
手品じゃなくても感覚的にわかる話がちょこちょこ入ってるおかげで、適当な心理学の入門書を読むよりわかりやすく、手品本で語られる根拠が謎の観客心理の話を補強する意味でも読んで良かったです。
ところでSecret Languageは発送延期になったよーってメール来ましたが、お金払って半年ぐらい経ってから商品が届くと記憶の痕跡とか連続性とか完全に消え去ってタダで届いた!ってなれるので良かったですね。
まず間違いないクウォリティが約束されてるので気長に待ちましょう。
The Veriloquent収録トリック読んだけどこれめっちゃ凄くないですか。
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